PADS とのかかわりはCADユーザとして始まりましたが、社内での使用と並行してPADS 販売に向けての準備を始めました。
まず手始めに、協力関係(とはいっても助けてもらっていただけでしたが…)のあった基板設計専門会社に、PADS を紹介してみました。ちょうどPADS を使い始めて 2-3 ヶ月後くらいのことです。PADS ビジネスのきっかけを探ると共に、本格的な基板設計会社が PADS にどのような評価を下すのかということに、大変興味がありました。
この時、半日程度のデモの結果、私たちが使っているものとほぼ同じ構成のもの買ってもらう事ができました。しかしその後、数日間のトレーニング等を行いましたが結局は業務には使用されませんでした。この時はじめて、既存のものと操作性の異なるツールを受け入れてもらうことの難しさを知りました。
私たちは PADS による基板設計業務が軌道に乗り始めまもなく、社内使用と商品開拓を兼ねて当時米国で販売されていた、PADSのオプションを買い揃えました。ソフトウェアでは PADS Push and Shove インタラクティブルータ、ハードウェアでは、#9 スクロールボードなどを購入しました。
PADS Push and Shove インタラクティブルータは後に機能が拡張され、Massteck の MaxRoute として販売されます。しかし当時のコンピュータでは PADS Push and Shove は応答が遅すぎて使い物になりませんでした。一方 #9 スクロールボードは使えました。当時 1024 x 758 のグラフィックボードでも 512KB のVideo RAM しか搭載していませんでした。しかし #9 スクロールボード は 4MB の RAM を積んでおり、8 倍の表示面積をスクロールして瞬時に見渡すことができました。再描画に時間のかかる PADS にとって、これは大変実用的なオプションでした。
その後、1990 年の中旬くらいから、国内でのPADS 販売への参入を試みました。このころすでに PADS の国内代理店は 4 社(ハイレル、尾崎産業、CRCテクニカル、CAD プロダクト)もあり、すでに過当競争の状態にありました。1989 年のJPCA ショーではPADS 代理店の出展は尾崎産業だけでしたが、1990年のJPCA ショーでは、4 社の全てがブースでPADS を展示し、CAD エリアからあたりを見回すとのどこからでも PADS の看板が目に入るような状態でした。(若干記憶に誤りがあるかも知れません)
当時 PADS はまだ普及が始まったばかりでしたが、このPADS の盛況ぶりをみて、PADS が日本で一番メジャーなCAD ツールだと勘違いした人は多かったと思います。このように、4 社の代理店間の競争によってPADS の露出度は高まり、PADS の知名度は急速に上がりました。
この競争原理に基づいた代理店戦略は大成功を収め、PADS は急激に浸透しました。たぶん一社の総代理店にまかせた場合には、こんなにうまくは行かなかったと思います。しかし一方、分散化によりまとまった営業投資が出来ないという弊害が生じ、雑誌広告もほとんど行われておらず、日本語マニュアルもない状態でした。
そこで私たちは、この PADS の代理店戦略の隙間を埋めることにより PADS のビジネスへの参入を行うことにしました。そして当時、切望されてていたPADS マニュアルの日本語化を行い、CAD Software 社に対して PADS の代理権を取得すべく申し入れました。しかし当時の営業責任者(Michael Marsh – HG.Marsh 社長の 三男)には、これ以上日本にPADS の代理店はいらないと言って断られました。
結局、この PADS 日本語マニュアルは、開発元の CAD Softoware 社に買い取ってもらうことになり、このマニュアルの対価として、PADS ソフトウェの現物を数本受け取りました。そして、このパッケージを売りさばくことにより、私たちの CAD 販売ビジネスが始まりました。私たちは当時、CAD 販売については全くの素人でしたが、社内で実務に使用していましたので商品知識は充分にあり、このビジネスへの参入に対して全く不安はありませんでした。
とにもかくにも、現金を支払うことなしに商品を手に入れることができ、リスクの無い幸運な船出をすることができました。
PADS セールス最後発の私たちは、他の代理店に対して明確な差別化を計る必要がありました。実際に社内で PADS 使っているということがこの差別化に役立ちました。また、当時の CAD ツールはソフトウェア単体ではなく、ハードウェアを含めたシステム(欧米ではターンキーシステムと呼ばれていた)で販売されていました。このため、プラットフォームとして使用するコンピュータ等のハードウェアや、関連ソフトウェアツールによっても差別化が可能でした。
当時すで社内使用のため CAD 関連商品の輸入を行っていましたが、他社との差別化のため、さらにこれらの輸入を推し進めました。PADS PCB の販売に注力した 1990 年から 1992 年くらいにかけて輸入した商品には次のようなものがありました。
(1) ハードウェア
・ i486 CPU 搭載の AT 互換機(自社ブランド T486 コンピュータ) 当時国内には品質の良い物が少なかったので、高品質なマザーボードを中心に、レギュレーションのよい電源等を組み合わせたものを米国から輸入した。
・ グラフィックボード ATI 社製の MACH 32 チップ搭載のボートや、VIDEO7 等のボードを輸入した。PADS では、サポートされている高解像度グラフィックボードの種類が限られており、PADS に適合するこれらのボードは国内での入手が難しかった。 ・ Telebit Trail Blazer 高速モデム 当時、Gerber データ転送用に用いられていた定番モデム。国内ではあまりにも高かったので輸入した。
・ Qualstar MT 装置 これは、DAT ではなくオープンリールの MT 装置。当時はまだオープンリールの MT 装置が一部で使用されていた。国内ではあまりにも高価だったので輸入した。
(2) ソフトウェア
・ Massteck MaxRoute オートルータ PADS SuperRouer の配線品質とオフグリッド配線能力に問題があったため、その代替として輸入を始めた。
・ ECAM Gerber エディタ
PADS には CAM 編集機能がなかったためこの機能の不足を補うため輸入を始めた。
これらの周辺機器とのシステム化により 2-3 年の間なんとか競争力を保ち、採算の取れるレベルで PADS ビジネスを展開することができました。またこれらの周辺機器は単体での需要もあり、i486 AT互換機を中心に同業者の方々にも多数購入していただきました。
1992 年には、PADS 販売の主力は 32 ビット版の PADS2000に移行します。このころ、PADS Software 社は、基板メーカであるキョーデンに買収され、国内のディストリビューションはパッズ・ジャパンに移管されます。これ以後、旧来からの PADS 代理店との競争がほとんどなくなり、代わりにキョーデン/パッズ・ジャパンとの競争に晒されることになりました。約一年くらいの間この困難な環境に耐え忍び PADS の販売に注力しましたが、1993 年以降は Protel に主力を移し、デザインエントリーマーケット向けの CAD ビジネスに移行しました。
とにかくこの間、売れそうなものは何でも輸入して売りました。また当時はノートブックコンピュータが普及しておらず、デスクトップコンピュータを車に積んでデモに出向きました。このため社用車の走行距離が1 年に 50,000km を超えた年もありました。
とにかく苦労はしましたが、基板設計で会社を立ち上げたあと、PADS で CAD ビジネスの基盤を築くことができました。いま振り返ると、当時は大変忙しくまた極めて充実した期間でもありました。